平家物語

保元の乱、平治の乱に勝利した平清盛は太政大臣
となり、「平家にあらずんば人にあらず」と
言われたように、清盛一族は全盛期を
謳歌していました。
しかし、1180年に諸国の源氏勢力が蜂起し、
平氏は苦境に陥りました。1183年、平家は
都落ちし、幼い安徳天皇と三種の神器(鏡・玉・剣)を擁して、 西国に逃れて行きました。その後平氏は、一ノ谷の戦い、屋島の戦いの後、壇ノ浦の戦いに敗れ、1185年に滅亡しました。

祖谷平家伝説

祖谷に伝わる平家伝説では、1185年の屋島の合戦に敗れた平国盛一族が、幼い安徳帝をお守りして、三好市東祖谷の大枝名に入山しました。

後に国盛は、祖谷街道からも、土佐街道からも目に付きにくい阿佐名に住居を構え、平家再興を図っていましたが、願い虚しく安徳帝は突然崩御されてしまいました。
国盛は、大枝に安徳帝を祀る鉾神社を、阿佐に定福寺と十二社権現を建立し、帝と祖先の冥福を祈ったと伝えられています。
その国盛も、入山二十三年目の1208年に「この地の平穏と子孫の繁栄を図れ。名を消して墓に入れ」との遺言をのこして、四十九年の生涯を閉じたと言われています。

平国盛と安徳天皇

平国盛は、歴史書の平氏系図を調べても見当たりません。本当に実在した人物かどうかという疑問が出てきますが、「姓氏家系大辞典(太田 亮著)」には教経(のりつね)の別名として記載されています。

安徳帝は、平清盛の孫にあたり、3歳で天皇に即位しました。屋島の合戦後に国盛に守られて祖谷の地を踏んだ時は僅か6歳でした。 その後、栗枝渡に造営された御所をたいへんお気に入りになっておりましたが、夏でも夜は火の気が恋しいという祖谷山の厳しい気候に、幼い帝は健康をむしばまれ、遂にこの地で崩御あそばされました。

平家屋敷

平国盛は、大枝名に入山した後、阿佐名に住居を構え、代々阿佐氏を姓としました。 現在も23代目のご当主が住まわれております。
(※民家ですので、見学は屋外しかできません。)

平家屋敷のすぐ西に、今は枯れていますが丹念に積んだ石垣で囲まれた泉があります。この泉は「紫の泉」と呼ばれ、国盛が、戦死した者達の冥福を祈り、平家の再興を誓って和歌を詠んだと伝えられています。
(日の出の勢いであった平氏は、今、このような深山に落ちのびて日々を送っている。今にここを出て、全国の平氏を糾合し京の都へ攻めのぼり、都大路に平氏の軍旗をはためかせるのだ。そして、悲運の帝を一日も早く、 京の御所に迎え入れ奉らなければならない。)

平家の赤旗

「平家の赤旗」は、先祖伝来の家宝として、阿佐家に大切に保管されています。屋島の合戦に敗れた国盛が、平家の象徴として、また、平家再興の旗じるしとして、大切に祖谷まで持って来たと伝えられています。

大旗は本陣用、小旗は戦陣用に用いたと伝えられています。日本最古の軍旗といわれ、歴史的資料として貴重なものと考えられます。(東祖谷歴史民俗資料館にそのレプリカが展示されています。)